Australia-Japan Research Project

オーストラリア戦争記念館の豪日研究プロジェクト
戦争の人間像
ブカ島住民との関係

海軍主計大尉河西小太郎は、日本海軍第八艦隊司令部付として、1943年7月にブーゲンビル島南部のブインに派遣され、島の日本軍の補給を監督する任務についた。その年の12月に、島北部のブカへ転属になり、そこで終戦を迎えた。

川西は、戦後にブーゲンビルでの体験談を出版したが、その中で、ブカ島における日本軍占領兵たちと地元住民の関係を記述した。2者の関係は最初は友好的で、土地で取れる収穫物といろいろな物資とを交換していた。しかし、島での物資供給状態がいったん悪化すると、日本兵が農作物や家畜を頻繁に盗むようになった。また、現地女性の誘拐、強姦、そして殺人もおこった。

ブインにおかれた海軍司令部は、そのような状況を憂慮し。現地住民との関係向上に指令を出した。けれども、状況を好転させるために、現地にうまく即した方針を実施するのは、河西ともう一人の参謀、後藤大作に任されていた。河西と後藤の努力によって関係は修復され、最終的には双方とも恩恵を受けたのだった。

河西の活動は3つの原則に基づいていた。まず第一に、日本兵と現地住民との接触を減らすこと。そして、部落の首長の権限を回復し、彼らとの連絡を取るための宣撫員を士官の中から選ぶこと。そして最後に、現地住民から略奪をした日本兵は死刑とすることであった。そして約20名の下士官が、宣撫員として任命された。彼らは海軍の制服を身に着け、現地部落に居住して、住民との密接な接触を保った。部落の首長も余分の海軍帽と軍服を給付され、宣撫員の補助のもと、伝統的な権威組織の復活にあたった。

河西は,ブカ島南部の山中にあるテラツに、若者のために学校を作るために力を注いだ。この地域のそれぞれの村の男たちが、順番で学校に出席した。彼らはそこで日本式農耕法を学び、古い自動車のスプリングやドラム缶を使って、シャベルやツルハシなどの農耕用機具の作り方、製塩法、そして作った塩を使って取った魚の保存法を教わった。学校での訓練で栽培された農作物は、地元住民と海軍のあいだで半々に分けられた。

村に戻った若者たちは、新しく得た知識を使って余剰作物を生産できるようになり、その作物は村の首長が監督した。このようなシステムのおかげで、地元住民は安定した生活を送ることができると同時に、日本軍にとっても戦闘の際の補給方式を作る可能性がでてきた。日本兵による地元民からの略奪は止み、河西によると他の問題も起こらなくなった。また、宣撫員は各村との連絡業務にかかわることで、村民たちと強い絆をつくることができた。

河西によると、戦争終了の頃、オーストラリア兵が到着する前に、彼に別れを告げるために56人の首長がボニス半島へやってきた。首長たちが感謝の念を表し、友人とみなしたことに彼は深い感銘を覚えた。そして彼が見たのは、勝利に輝いたオーストラリア軍が近づいてくる前、日本の海軍帽を後ろ手に隠してこっそりとジャングルへ消えていった彼らの最後の姿だった。

スティーブ・ブラード記 (田村恵子訳)

参考資料
藤本威宏 『ブーゲンビル戦記』光人社刊。2003年発行。


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